ハリウッドでの仕事を終えニューヨークへと帰ろうとしていたエラリイ・クイーンはネバダ州の砂漠の真ん中で道に迷い、クイーナンと呼ばれる外界から隔離された独立社会に足を踏み入れてしまう。そこでは時の感覚すらも忘れた人々が「教師」と呼ばれる指導者の下、自給自足の生活を営んでおり、犯罪とは全く無縁の世界を送っていた。しかし、そのクイーナンで雑品係の男がハンマーで頭を殴られ殺害される事件が起こる。半世紀も犯罪が起きたことがないその村には当然警察組織も無い。エラリイはひとり事件の解決に当たるのだが……。
厳密に言うと、この話はダネイとリーによるエラリー・クイーンが書いたものではなく、ダネイがプロットをまとめ、それをSF作家エイブラハム・デイヴィッドスンが小説化したものです。そして数あるクイーン作品の中でも異彩を放っています。
まるで旧約聖書の世界を髣髴とさせるクイーナンという村。そこを舞台に宗教をベースにした物語が展開されていきます。日本人(というか、クリスチャンでない者)には、旧約聖書や新約聖書の世界は下地として刷り込まれていないせいか、いろんな書評サイトを覗いてみると、「よくわからない」「宗教観が理解しにくい」といった感想が目立ってあまり好意的な感想はなかなか見受けられないのですが、私は実はこの話が好きです。
確かに、国名シリーズのようにエラリイらしい完璧なロジックの推理ものとは、まるで違います。そういうのを求めてこれを読むと、「エラリイらしくない」と不満が出るかもしれません。でも私は、この本で静かに語られる平和な村の善良な人々の暮らしぶりと、そこで起こってしまった事件の結末を見届けたい気になるんです。この話は普通のミステリとは視点が違うのじゃないでしょうか。
人々はみな本当に善良で、私利私欲の為に人を殺す者などいないように見える。
でも、事件は起こった。
そして、謎は解かれなければならない。
犯罪に関してはプロであるエラリイが指紋を取ったりアリバイを聞き込んだりと、いろいろと科学捜査を行うけれど、それがとても浮いて見えるんです。なんのためにそんなことを暴き立てるのかと、もういいじゃないかと思えてきて。謎を解くのが面白くて読んでいるはずのミステリなのに。
そして暴かれた真相と犯人が最後に選んだ道は、カタルシスよりも静かな悲しみを誘います。もうここは、理想郷ではなくなってしまった。
謎を解いたエラリイでさえ、深く後悔します。
見方を変えると、宗教色に彩られたクイーナンという不思議な村は、この作品をミステリたらしめるための仕掛けのひとつなのかもしれません。文明社会の中ではありふれた殺人も、この理想郷でなら激しいギャップを伴った真相となりえる。そしてそんな村が存在しているのが、第二次世界大戦中だなんて。この大戦中という時代設定も、ラストに明かされる「ムクーの書」の正体の禍々しさを強くひき立てています。クイーナンの人々が大切に大切に崇めていたその本は――。
エラリイにいつもの鋭い冴えがなく、こんな事件にここまでてこずるのも珍しいのですが、その理由であるハリウッドでの戦争絡みの仕事の記述も、この書名が明かされてみると「ああ、あれも伏線だったんだ」と気づきます。
初めて読んだときにはこのラストに衝撃を受け、「ここまでやるか!」と思ったものでしたが、再読してみるとその本の正体がわかることで更に深い悲しみと物語の終幕を感じました。