1964〜1989年にかけての物語。印象的な表紙に惹かれて手に取りました。
貧しい家庭に育ち、医者として成功したデイヴィッド。苦労してきた彼は、ノラという美しい女性と出会い結婚。そして1964年の大雪の日に男女の双子(ポールとフィービ)を自ら取り上げたのだが、娘には明らかなダウン症の特徴があった。衝撃を受けながらもその場で施設に送ることを決断。看護師のキャロラインに赤ん坊を託し、妻には死産だったと告げるのだが――。
当時はダウン症の症状が認められた場合には、速やかに施設へ送られるのが普通だったということに驚きました。そして分娩に麻酔が使われるのも当然のことなんですね。日本だと無痛分娩は病院によって扱うところとそうでないところとありますよね。
話を戻して。デイヴィッドのしたことは妻を思い、家族の将来を思ってのことです。もちろん悩まなかったわけではありません。周囲も妻も知りませんが、彼には同じように障害を持つ妹がいたのです。そしてその世話につきっきりでボロボロになってしまった彼の母の記憶が、心の深いところに傷を残していたのです。それを知って読んでいるこちらには、デイヴィッドの苦悩がわかるのですが、彼の妻や息子はなにも知らされておらず、どんどん家族内の溝が深まっていくのが見ていてもどかしい。
後にフィービの存在を妻も息子も知るところとなるのですが、死んだと偽っていたことに対する彼らの怒りと哀しみを見ても、私はどうしてもデイヴィッドに同情的になってしまうのでした。秘密を生涯抱え続けることは、並大抵のことじゃないだろうから。もちろんデイヴィッドの狡さも描かれています。看護師のキャロラインにフィービを預けたのは、彼女が自分に淡い恋心を抱いていると薄々気づいていてのことだし、施設の酷さに驚き、その子をひとりで育てようと決意して町を出て行った彼女達を本気で探そうとしなかったところもあります。ダウン症の子供を抱えたキャロラインに対して、手助けするようなこともなかった。
家族を思って下した冷静で客観的な行動によって家族との間に溝が出来、孤独になってしまうデイヴィッドと、目の前の小さな命に対する本能的感情によって行動した結果、数々の苦難を乗り越えて温かい家庭を得たキャロライン。一見対比させてはいるけれど、どちらが正しかったのかを描いた作品ではないと思います。誰でも岐路に立たされて、物事を選ばなければいけない時があり、その時の決断を背負って生きていかなければならないのだ、とこの物語は言っているように感じられました。
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キム・エドワーズ
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(2008-02-26)
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