デビュー作
『となり町戦争』を読んだとき、設定や話の中に差し込まれる公文書などの凝った造りは好みただけど話自体はもう一歩でしばらく様子見だと思っていた。二作目の
『バスジャック』を読んだとき、一作目よりも面白く読んでこの先楽しみな作家だと心の中のメモ帳に要チェックの印をつけた。そして三作目の本書。やった! きた! 私のストライクゾーンにバシッときた!
この本の中には、三崎ワールドがこれでもかと詰め込まれている。
30年に一度、原因もわからずに起こる町単位での住民の消滅。それはどうやら町の意志で起きるらしい。失われた町や人々を悲しめば、町はその人たちをも消滅させてしまう。その「余滅」を防ぐため、政府は消滅した町の痕跡を徹底的に抹消し、消滅した町を始めからなかったものにする作業を進める。愛する者たちを唐突に奪われる理不尽さ。そしてそれを悲しむことも許されない状況。そして失われた町は禁忌となり、係わったものに対する「穢れ」という差別が生まれた。愛する物を失った人々はこの消滅現象を食い止めることが出来るのか。
いやもう、面白かった。ぐいぐい先を読まされた。ただところどころに違和感があることはあった。章ごとに語り手が代わるのはいいけれど、その話の中で登場人物に時々「さん」づけがされるのが妙な感じだった。なんとなく変だなと思っていたら、これは連作短編として小説すばるに連載されていたものだとか。なるほど。
話の中で「さん」づけされるのは、白瀬さん(彼女が主役の章では「桂子さん」)、脇坂さん、中西さん。そのうち呼び名が章によってかわるのは白瀬桂子だけ。これはなにを意味しているんだろう。彼女と脇坂がメインの章だけ、登場人物の誰かが後に聞いたことを文章にしている、あるいは書き記しているという形式にしようと思っていたのだろうか。そこらへん、もう一度読み返したらなにかヒントがあったりして。
始めは今私たちの暮らす日本とほぼかわらない場所で起こっている話として読んでいたが、章が進むにつれてどんどんオリジナル設定が顔を出し、「あれ? あれれ?」と思っているうちにすっかりそこはここではない異世界へとなっていた。大きなことから小さなことまで、実に凝っている。その凝りようがまた楽しいと思うのは、もともとSFが好きだからだろうか。
あるひとつの世界があって、書かれているのはそこに住む者たちが交わしている会話なり描写なりであるのだから、読者が知らない社会制度や文化、風俗も出てくる。それを全部解説していたら、とても話は収束しないだろう。だから、失われた町に係わってくるもの以外については説明なしに進んでいく。そこについてこられるかどうか、あるいは説明されない不安や鬱憤を脇に放っておくことができるかどうかで、この話の評価や感想がかわるだろう。
ストーリーを追いながら、時々もったいないなとも思っていた。ここに詰め込まれている凝りに凝った設定を使って、あと二、三本長編が書けるんじゃないかと思ったのだ。例えば、奏者の意識や想念を自由に飛ばすことの出来る「古奏器」をメインにした民話的ファンタジーか伝奇もの、「自己同一性障害」の治療で一人の人間を本体と別体と分離するエピソードを広げて本格的なSFなどなど。そういうアイディアを惜しげもなくこれでもかと突っ込んでいるところは、デビュー間もなくアイディア溢れる作家さんだからか。将来的にこの本が、いくつかのシリーズものを繋ぐ本になれば面白いと思う。恩田陸の『三月は深き紅の淵を』のように。
肝心な内容については、登場人物たちがいろんな行動をとり、それがやがて一本の道へと繋がってゆくのが気持ちよかった。途中、桂子と脇坂の章でどんどん話が横道に逸れていくように見えたときには「どこにいっちゃうんだ、この話は」と思ったけど、その広がりもまた失われた町の消滅を防ぐために必要な物事のリンクであったし。
登場人物たちはみな、辛い思いをしながらも前に向かって歩き出す。傷つきながらも一歩踏み出す。読んでいる間中どんなにあちこち振り回されても、彼らがひとつの目的に向かって進んでいるからこっちもついていけた。そして、その道がひとつに繋がったとき、まるで彼らと共に苦労してきたように「ああ、やっと……」という感慨があった。特殊な世界観の描写に力を入れているなという印象が、最後には闘う人々の物語を読んだという感想にかわった。
好みの分かれる作品だと思う。
読む人を選ぶ内容だとも思う。
しかし、これは三崎亜記という作家にとって大きな一作になったんじゃないだろうか。
やがて、空の際が夜の色を深め、宵の明星が光る頃、それは始まった。
「あ……、光」
月ヶ瀬に、一つ、また一つと、明かりが灯り始めたのだ。光は、まるで一日の終わりの夕餉の明かりのように広がっていった。住む者のいない町に。
(本文より)